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■魂とかのこと
*注*
この文章は書きなぐったものをほぼ無修正で掲載しているため、かなり見苦しく、意味不明なものになっており、かつ長いです。
あらかじめご了承ください。

 はてさて、こんな事を考えるのは何度目になろうや。
 いや、実際は何回目なんていうのは不明で、かつ無意味である。生きている限り人は常に思考しており、それらは全て関連しあい、常に一つであるとも言えるからだ。
 ……とか偉そうにほざいてみたり。口からでまかせです。えっへん。
 で、因みにこの文章で「ゴースト=魂」といっているのは、かの偉大な漫画家、士郎正宗氏の影響です。とりあえず攻殻とアップルを読め。オリオンも読め。っていうかアップル5巻は出ないんですね。うー。
 ……と、全然話がずれた。軌道修正。

 んで、今回のお話はゴースト(魂、霊魂、みたいな)について、である。何ていうか、大雑把(それこそ正確詳細になんて土台無理な話)に
 「魂って何?」
という感じのお話。では以下から。

 ゴーストってなんだろう? いや、いきなりいわれても困るんだが。とにかくゴーストってのはなんなんだろう。一つに「肉体の対をなすもの」という言い方ができると思う。っていうかそういう感じだ、たぶん。
 つまり三次元の物理的な現象でないもの、というか形のないものみたいな。しかしゴーストが「物理現象以外」だったとしたら、この思考もゴーストではないということになる、と思う。何故なら思考は肉体が化学反応で起こしているからだ。意識も体を流れる電気とか化学物質が支配している。あらゆることに対する反応であっても、それは親やその他の周囲の反応行動を学習して、ただ状況に応じて無意識に反射しているだけかもしれないし。それを言ったらこの「魂って何?」思考も周囲の要素を学習した反応の延長なのか? とか。うーむ。

 話は変わって。万物に霊魂は宿っているという考え方がある。というか原始宗教ってそんな感じ? 全霊主義(アニミズム)っていうの? つまり葉っぱとか石とかとかにもゴーストが宿っている、という考え方。日本にもこういう考え方はある。妖怪がそう。付喪神(つくもがみ、日用品等が古くなり妖怪化したもの)なんてのはもろだ。そういうのでなくても、例えばAIと受け答えしている時、植物がこっちの言葉に反応したように見えた時などはソレに対してゴーストを感じる。この感覚は対象物が動物、一般に生命と呼ばれるのもから遠いほど、人間から遠いほど神秘的になる、と思う。
 で反面、大抵の人は石にゴーストがあるなんて思ってないし、そういわれても石にゴーストを認めたりはしないだろう。「物に魂は宿ってない」というのが一般的な考え方である。

 ということは、ゴーストは観測によって発生するのではないだろうか? という風に考えてみる。つまり物にゴーストが宿っていようがいまいが、ある人が「宿ってる」と思えば宿ってるし、ある人が「宿ってない」と思えば宿ってない、ということである。これは、少なくともこれは主観の世界では成立している。

 主観世界。ちょっと話がそれるが書いておこう。「物」とか「現象」というのは完全に独立して存在している、というのが一般的な考え方である。つまり、例えば小泉首相はテレビに映っていないときにも存在している、という風な考え方だ。確認はしていないけどユーラシア大陸は存在している、確認はしていないけど校舎はある、確認はしてないけど彼はいるとかいう感じ。確かにそうかもしれないが、実際はどうなんだろう?
 例えば、完全に未開の土地に人がいるとしよう。しかし誰もその人を確認していない。ではその人は本当に存在しているのだろうか? それは実際に確認してみないとわからないのである。つまり、自分の目でその人が存在しているという現象を観測してみないとわからないのだ。逆にいうと、その人は第三者に観測してもらわなければ存在していないということだ。 ……いや、存在しているかしていないかわからない状態になるのだ。何ていうか、この辺は量子学的な話。「シュレディンガーの猫」というやつだ。観測が状態を決定する。ユーラシア大陸は存在しているかどうかわからない、校舎はあるかどうかわからない、彼はいるかどうかわからない。
 で、観測は基本的に主観で行われるものだ。だから世界は人の数だけある。というのが主観世界である。今考えた。うん、テキトウだな。
 で、例えて言うと、ある人には幽霊が見えたが、もう一人には見えなかった。この場合(当人が信じるかどうかも問題だが)、ある人の世界には幽霊がいて、もう一人の世界にはいないことになる、といった感じ。では第三者的な世界なんてのは存在しえないのか? とかいう考えがわいてくるが、今回は保留。いや、関連はしているかもしれんが。

 んで、こういう風に考えるとゴーストも観測されるから存在している、といえる。石とか靴ならそれでもいい感じだが、では人の場合はどうなんだろう? 観測によって存在が決定されているとしたら、我々は互いに見合って存在を確保しているということだろうか? 因みにこの「観測」は何も目で見なくてもいい。主観世界だから意識にのぼらせるだけでいいのだ。だいたいここまできたら目で見て触ったところで絶対的な確証がえられるなんて思えないし。
 しかし、これは困った事だ。例えば、友人は自分が見ているから存在しており、自分は友人から見られているから存在していることになる。では「独り」の時の自分とは何だ? 前までの理論でいくなら、自分が独りでいるときも誰かに観測されている事になる。だが(実際どうかわからないが)肉眼で見られているということではなく、意識・無意識で存在を認識されているといった感じだろう。
 しかも観測によって発生するのは体だけではないだろう。意識等の現象も他者からの観測によっているということになる。つまり「アイツはこんなことを考えている」とかいう観測者の意識が自分の思考等を形作っていて、いやその観測者の意識も自分を含めた他の観測者の意識によっていて、いやその自分の意識さえも……。と、堂々巡り。

 うーん、結局ゴーストってなんなんだ? っていうか後半「ゴースト」じゃなくて「存在」にまで話が拡大してたし。
 しかしこう考えると自分とかって何か不安定。だいたい自分っていってる「自分」って何者なのかもわからないし。もっけに出てきた影とその端のぼやけた部分との会話の寓話(荘子「斉物論/モウ両問景」)も面白い。
 結局「自我」とか「自己」ってなものには何も確証みたいなものはなく、唯一自分が「自分は自分である」という風に考えられるところが確証的といえば確証的。だいたいこの話だって私がそういう風に思っているからできるわけで。根底から「自分」に疑いを持ったら、それこそ生きていけないだろうし。うむ、なんかよくわからんがこれくらいで終い。おつかれ。


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